「四国三郎」の異名を持つ暴れ川として知られた吉野川。その北岸に位置する徳島県阿波市市場町香美(かがみ)の墓地に、「嗚呼(ああ)忠魂碑」と刻まれた石碑が立つ。
高さは160センチほどで、地元でも気にとめる人はほとんどいないが、日本と朝鮮半島の関係を考えるうえで重要なモニュメントという。
3月下旬、田畑に囲まれた墓地の近くに、日韓の約20人が乗った観光バスが横付けされた。日本史が専門の北海道大名誉教授、井上勝生さん(80)らが案内役を務めるスタディーツアーだった。石碑の前で井上さんは解説した。
「131年前の日清戦争で、徳島県の青年が徴兵されて朝鮮に赴き、戦闘で死亡したという確かな証拠です」
《陸軍歩兵上等卒杉野氏通称虎吉》で始まる碑文は漢文12行。
明治27(1894)年、代々この地に住んできた温厚な杉野虎吉が召集され、日本軍の後備歩兵独立第十九大隊に配属された。朝鮮国で起きた「騒擾(そうじょう)蜂起」の「討伐」に参加し、忠清道連山(現在の韓国・忠清南道)で、弾丸にあごを貫かれて絶命した。杉野の兄が95年に立てたとされる石碑には、こう刻まれている。
井上さんは続けた。
「日清戦争は、日本と清国(中国)の戦争だとイメージする人が多いですが、戦場になったのは、主に朝鮮半島。日本軍の第一撃は、朝鮮の国王が住んでいた王宮(景福宮)の占領だった。杉野の部隊の任務は、日本軍の行動に反発して抵抗した東学農民軍を根絶やしにすることでした」
従軍日誌に「拷問の上、焼殺せり」
「東学」とは、1860年に…